2017年08月

カテゴリー : blog_知識・勉強
2017.8.9 14:59

私は材木屋の店主ですので、視察、視察とついつい木曽桧のことばかり書いてしまいました。

木曽川と豊かな山と森、それに沿って人が行き来する中山道にまつわるものが木曽の見どころです。

赤沢森林にはかつて木材の搬出の為に施設された森林鉄道が、今は観光用として復活し、森の奥まで私たちを運んでくれました。あまり歩けなくても充分に森を感じることができます。森の中に入るとセラピー効果でストレスも少し和らいだような気がしました。森林セラピーを唱え始めたのはここ木曽だそうです。名古屋方面からの若い人たちは水着を着て川遊びに来ています。阿寺渓谷には川に飛び込むポイントがあったり、赤沢には子どもたち向けのスライダーもあったりします。もう少し若かったら飛び込みたい気分でした。有名な妻籠宿にはたくさんの外国人が来ていました。彼らにとってはこれぞにっぽんでしょう。又資料館では当時の暮らしぶりや木材を川を使って運び出す様子を知ることができました。木曽の木材が材料として品質がよく貴重なものというだけでなく、江戸や大坂などに運ぶこと自体が大変な貴重品だったのだと思いました。私は品川で現存する明治時代の医院の改修工事に携わったことがあります。柱や梁に明らかに古材と思われるもが使われているのを見ました。木材が貴重品だったから、その前にあった建物の柱や梁で、まだ使えるものは使ったのだとその時想像していました。木曽の材木出しの様子を知って確信しました。今年の上松の町の夏祭りは子どもたちが曳くお木曳きが巡行していました。伊勢神宮の次の式年遷宮はこの町では今年から始まるのだそうです。伊勢でお木曳をしましたので親近感を感じました。

東京から車で4時間。山脈の向こう側のイメージがあり、今まで来た事がありませんでした。視察がメインでしたが、ゆっくりした時間を感じられる旅になりました。

池田浩康

カテゴリー : blog_知識・勉強
2017.8.6 18:38

私は材木屋の店主ですが、木材の市場にもあまり行ったことがありません。それじゃどうやって材木を仕入れてるの?って思われるかもしれません。昭和40年代、父が店主の頃は、市場で競りが日常の商い慣習として行われていて、父も市場の競りで引き当てないと仕入れが滞り、商売ができなくなる時代でした。私の世代は卸問屋に必要なものを注文すれば、その日のうちに少量でも届けてくれるのが慣習になっていますので、市場の競りで引き当てを行わなくても木材の仕入れができます。さらに私は建材と住設の卸問屋で修行しましたので全く木材の市場には疎遠だったのです。

木曽視察の2日目は、木曽官材市売共同組合の市場を見学しました。ちょうど一年で一番大きな市の日に当たり、全国から買い付けをする人たちが集まっていました。現物を見て値段をつけ、競りをして仕入する商いの慣習が今もあるからです。

製材された天然の木曽桧は杢目が細かく(写真)良質な材料であることがよくわかります。前日の赤沢の森の視察で木曽の300年生の立木の太さが、他で見る植林した桧の90年生くらいと同じ太さに感じましたので、杢目のつまり方は約3分の一程度(10ミリの中に杢目10本以上)であるのがよくわかります。

柱や鴨居、敷居といった造作に無垢のまま使うのは、伊勢神宮を代表とした寺社建築や高級店舗のカウンターなどが主で、断面寸法の大きなものは単板用途になるとの事です。

私の会社では年に1,2回程度寺社関係の工事の際に手当てをするくらいです。

上松の土場には切り出された桧やサワラの原木が積まれています。こちらでも輪切りになった原木の元口を見ると杢目のつまった様子(写真)がよくわかります。

杢目のつまった木曽桧は製材後の狂いが少ない為、建築用材としてだけでなく、卓球のラケットなど様々な用途で活躍しています。

池田浩康

カテゴリー : blog_知識・勉強
2017.8.2 19:00

私は材木屋の店主ですが、木材の産地を見る機会はほとんどありませんでした。最近は青梅の中島林業さんとお付き合いをするようになり、山、原木市場、製材工場に出かけていますが、その他の産地に行く機会はなかなかないものです。 今回は、材木屋ならば一度は体感してみたいと思う木曽桧を視察させていただく機会を得ました。 私の妻(当社総務部長で今回同行しました)の父方で縁がある新津清亮さんが昨年林野庁の木曽森林管理署長として赴任されたことがきっかけです。 木曽は国有林です。建築用材として最高の木材、木曽桧の産地を管理されている責任者のお話を伺い、一緒に森や市場を体感できる貴重な視察となりました。 以下私なりに理解できた木曽の森や木の話を書き留めてみます。 ①古くから木曽の桧は強度のある良質な木材とされていた。 ②西暦1600年前後の時代には豊臣秀吉や尾張徳川藩が直轄地として、築城や船舶、土木の材料として大量に伐採した為、山が荒れて樹木が少なくなってしまった。 ③江戸時代には住民の立ち入りを禁ずる「留山」、「停止木(ちょうじぼく)」としてヒノキ、サワラ、アスナロ、コウヤマキ、ネズコの5木の伐採を禁ずるなど厳しい森林保護政策が行われた。 ④残った木々から落ちる種から芽生えた新しい木々(実生稚樹木)の成長を見守り続けた。 ⑤一般的な植林や間伐、枝うちなど人が手を入れた人工林ではなく、木曽の桧は自然に芽生えた木々の自然な成長を見守り続けた天然林。 ⑥その後も明治時代には皇室の御料林、伊勢神宮の遷宮用備林、昭和の時代は国有林の保安林として見守り続けられている。 ⑦現在300年程度の樹齢になっている木々はそのような見守りの成果である。 これからの時代は、豊臣や徳川の時代の伐採以前の天然林の森の姿に戻るよう、新しく芽生える木々の成長をゆっくり見守りつつ、少しづつ成長した木々を大切に資源として活用していくそうです。「もともとの森へ、ここにしかない森 木曽悠久の森」の考え方です。 視察した300年生の木の足元には、芽生えたばかりの1年生、5年生といった木々がありました。新津さんの話を聞いて足元に注意して歩くようになりました。せっかく芽生えたものを踏みつぶしたら大変だと感じたからです。 古くから残る大量伐採の跡や、伊勢神宮の遷宮に使われる御神木の伐採の跡、学術研究の試みなども見て、今までの木曽の森、これからの森の姿を学びました。 池田浩康

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